患者さんにとっての歯科医院を「人生をもっと楽しむためにいくところ」へ
院 長 金澤 徳幸
はじめまして。 札幌市西区平和にある平和歯科クリニックの院長 金澤徳幸です。
私には、歯科医院を「痛くなったら行くところ」から「今よりもっと健康になって、人生をもっと楽しむために行くところ」へと変えていきたいという夢があります。歯科医院は、「痛い」「怖い」「行きたくない」というイメージがある場所になっていますが、痛くなってから歯科医院に通うのでは、患者さんが一番つらい思いをしてしまうことになり、何よりもその後の治療も大変になってしまいます。
そのような理由から、平和歯科クリニックでは、「予防に重点を置いた診療スタイル」にしています。そして出来る限り患者さんの大切な歯を削らない、抜かない治療を心がけています。また、平和歯科クリニックでは、患者さんがきちんと納得して診療を受けていただくため、患者さんの大切な想いをお聞きする専門スタッフによるカウンセリングも実施しております。ご自身の歯を健康に保つことで、あなたの人生がもっと楽しくなるよう、スタッフ一同全力でお手伝いさせていただきます。
院長略歴
- 昭和50年5月24日生まれ
- 平成6年3月
函館ラ・サール学園高等学校卒業 - 平成15年3月
北海道大学歯学部卒業 - 平成15年4月
北海道大学歯学病院 歯科医療センター勤務 - 平成16年4月
医療法人社団千仁会 ちだ歯科クリニック勤務 - 平成20年4月
医療法人社団千仁会
平和歯科クリニック院長就任 - 平成23年6月
平和歯科クリニック 開業
- 開業までの道のり〜想い出
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幼少時代
1975年5月24日 北海道函館市に生まれました。生まれた時から色が白くて(今も白い)、落ち着きのない子だったようです(これも、今も、です笑)。この頃の記憶は不思議と母親が入院していたことが主なものです。ちょうど、幼稚園の頃、母親は体が弱く、入退院を繰り返していました。その時期すごく寂しかったのと、手術室に入っていく母親を見て、「もう会えないのじゃないか」と怖かった思い出があります。「僕がお母さんを治せれば」と思っていました。考えると、このことが、自分を医療系の道に進ませる大きな要因だったと思います。
小学校時代
家は母の経営する「焼き鳥屋」でした。家が焼き鳥屋ってなかなかないですよね?家とお店がつながってるんです! 不思議に思って、どうして家で店を開いたのか聞いてみたことがありました。母親は「あんたに寂しい思いをさせたくないからだよ」といっていました。この頃、よく熱を出す僕のことを仕事の合間に看病してくれてたのを思い出します。今考えれば本当にありがたいことです。親の愛情って凄い…
当時、金澤少年が、はまっていたのは『サッカー』(以後、大学までずっとサッカー部でした)。『キャプテン翼』が大流行していましたから、学校の休み時間、放課後もずうっとサッカーでした。この時から、人を笑わせるのが好きで「ひょうきん者」で通っていました。まあ、お調子者ですね。よく、しゃべってました(今もですが…)。
中学校時代
この時期は、よく勉強していました。部活はサッカー部でしたが、そこまで真剣ではなかったと思います。
勉強が面白かった!塾に通っていましたが、その塾の先生がユニークで熱い人でした。勉強以外にも色々な話をしてくれる方だったので、すごく好きで、楽しんで塾に通っていました。学ぶことが好きになった時期でした。
逆に親とは疎遠に…思いっきり思春期でした。小学生のころから、毎年(!)、家族旅行に連れて行ってもらったのですが、中3の時に「もう一緒に行きたくない」というような勝手な理由で無くなってしまいました。
今思うと、親の気持ちも知らず…反省です。高校時代
再びサッカー漬けです。毎日、ほぼ部活!!
練習して、試合して、練習して、大会、そして、テスト週間だけ勉強 のような感じでした(笑)サッカー部の顧問の先生が、ずっとサッカーをしてきた方で、本当の意味でサッカーを教えてくれた人です。これで本当にサッカーが好きになってしまった!(実際、浪人してもしてたくらいですから苦笑)それでも医療系に進みたいという夢は変わらずにいました。分かりやすく、「医者になる」と思っていましたが、見事に落ちました…(今思えば、準備不足もいいとこで無理・無茶・無謀です。)
浪人時代 ~歯科医師になろうと思ったきっかけ~
予備校に入るため札幌へ。
初めて親から離れての生活。札幌という都会。各地から集まった下宿の仲間たち。そんな刺激にアッサリ負けて、勉強はそこそこ。当然、成績は伸びず、しっかり3浪もしました。頑張ってるつもりしかできない奴だったんですね。腹立たしい奴です。ただ、しっかり挫折を味わったのは良かったと思っています。そして、受験を控えたある日、1人の人との出逢いが僕を歯科医師への道へと導いてくれたのです。その方は内科医でしたが、舌癌を患った経験をお持ちでした。そして私に言ったのです。「医師だけが全てではない。歯科医師も立派な仕事だ」と。それから、がむしゃらに勉強し、無事に合格となりました。
大学時代
無事に入学となったものの、ここでも比較的のんびり過ごしました。勉強はテストに落ちないように、そこそこやりましたが、部活がメインの大学生活でした。毎年遠征があって忙しくしていました。
そんな生活を3年続けて、4年生になった時、大きな大きな出来事が起きました。父親の急死です。くも膜下出血でした。
当時はあまりにも突然で、頭が真っ白になりました。不安も大きかったです。しかし自分よりも遥かに母親の受けたショックが大きく、ふさぎ込んでしまった母親を何とか支えるために2週に一回、札幌―函館を往復する日々が続きました。
父親の死は大変ショックでしたが、その後の自分の生き方に強い影響を与える出来事もありました。それは、父親の死から1か月くらいしてからでした。父親の会社の人がお線香をあげに来てくれた時のことです。その方は仏壇に手を合わせると言いました。「君が息子さんか。君を大学院に行かせてやりたいから、自分はまだ頑張るんだって言ってたよ」と。凄く驚きました。なぜなら、僕に面と向かって一度もそんなことを言ったことがなかったからです。うれしくて、そして悲しかったです。でも、それがきっかけで自分もこういう人にないたい!と強く思うようになりました。
勤務医時代
母親を支えたいという思いから就職を決めます。当初、札幌か函館か迷いましたが、将来を考え、札幌を選択。
様々な事情から、一年目は北大病院歯科診療センターにて研修医となりました。クラウン・ブリッジの講座に所属し、毎日遅くまで技工をし、様々なことを学びました。
そして一般歯科医院に就職。そこは非常に多くの患者さんが通院するところで、多いときは100人ほども来ていました!そのような環境でしたから、治療技術を高めることができました。また、最先端のインプラント治療も積極的に取り組んでいて、基礎からしっかり学ばせていただきました。
理事長には歯科医師として必要なことを非常にたくさん学ばせていただきました。今でも非常に感謝しております。就職して2年目に、またしても大きな出来事が起きます。母親が脳梗塞で倒れました。命に別状はなかったものの後遺症で車いす生活となったのです。仕事と介護の生活が始まりました。
分院長~開業へ
前述の医院で3年ほど勤務したころ、現在の平和歯科クリニックへと異動となりました。それから2年ほど経って、平和歯科クリニックの分院長となりました。(母親は施設に入所することとなりました)
分院長になった僕は、まさに仕事一辺倒でした。技術的なことだけでなく、経営のことも多く学びました。本もたくさん読み、セミナーにも毎月、参加しました(年間で100万以上投資しました)。趣味のサッカーも全てやめて、仕事に集中しました。
事に対しての考え方もガラリと変わりました。「なぜ、この仕事をしているのか?」考えて、考えて、考え抜きました(父親のこと、母親のこと、今までのこと全部)。そして出てきたのは、「困っている人を助けたい」「係わる人を幸せにしたい」ということでした。
頑張るなかで、「もっと周りの人とダイレクトに係わり合いたい」という想いから、開業の気持ちが芽生えてきました。このことを理事長に相談しに行くと、今の医院を譲って下さることに!新生 平和歯科クリニックの誕生となったのです!!
開業して感じることは「困っている人を助けたい」「係わる人を幸せにしたい」という想いはあっても、まだまだ未熟。時に、患者さんの期待に添えないことがまだまだ、あります。ただ、必ず期待に添えるように医院全体で向上心を持って頑張っていきます。宜しくお願いいたします!
長文を最後まで読んでくださってありがとうございました。